• 保健師
  • 助産師
  • 看護師
  • 准看護師
  • 5年一貫
  • 基礎分野
  • 教育の基盤
  • 看護論
  • 教育論
  • 雑誌『看護教育』

雑誌「看護教育」巻頭インタビュー

「常時接続社会」で失われた孤独を楽しみ、取り戻すための哲学

  • インタビュー
  • #哲学
  • #スマホ時代
  • #常時接続時代
  • 2026/01/07 掲載
谷川嘉浩
谷川 嘉浩(たにがわ・よしひろ)
著者紹介
谷川 嘉浩(たにがわ・よしひろ)
1990 年生まれ。博士(人間・環境学)。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。現在、京都市立芸術大学美術学部講師。著書に、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー携書)、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(ちくまプリマー新書)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)など。社会時評やカルチャー評論、エッセイなどで活動するほか、企業との協働多数。

※本インタビューは、雑誌『看護教育』66巻5号(2025年10-11月号)のp.519-526に掲載したものを、Web掲載用に再編集したものです。

スマホやタブレットをいつも携帯し、常に誰かとつながっている日々……。私たちは知らず知らずのうちに「孤独」を失い、日常の細部や自分自身と向き合う時間を置き去りにしているかもしれません。
本インタビューでは、哲学者の谷川嘉浩さんに、スマホ時代を生きる私たちの生活の在り方と、その中で失われた孤独を取り戻す考え方を伺いました。この新しい常時接続の世界をより深く理解し、日常を見つめ直す契機となれば幸いです。

「スマホ時代」にみる哲学を求める風潮

――谷川さんご自身、ビジネスパーソンや経営者の方から「哲学を学びたい」という声を聞くことが増えているといいます。このような現代の傾向について、どのようにお感じでしょうか?

 

谷川さん(以下、谷川) そもそも、哲学は昔から人類に求められてはいました。ただ、これまでは哲学を求める層が偏っていた、つまり「知的エリートの男性のもの」だったのが、最近は女性や会社員、経営者など、かつてなら「哲学なんて何の役に立つねん」「自分には何の関係もない」と感じていたであろう層にまで広がっているのが、すごく面白いと感じています。

 きっかけは、岸見一郎さん、古賀史健さんの『嫌われる勇気̶自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社、2013)や、2018年に単行本が出た、山口周さんの『武器になる哲学̶人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA、2023)の大ヒット辺りだと思います。古賀さんはライターだし、山口さんは経営コンサルタントで、哲学の専門家ではありません。他にも、雨瀬シオリさんの漫画『ここは今から倫理です。』(集英社)がアニメ・ドラマ化し、話題になったのは記憶に新しいでしょう。このように、さまざまなトレンドが哲学の間口を広げてくれたのだと思います。

 なぜこのような傾向が生まれたのでしょうか。私は、「現代社会で求められているものへの反動」が一因だと考えています。今を生きる社会人はもちろん、自由であっていい学生でさえも、日々「いつまでに何をしなさい」というタスクや重圧に追われています。また企業では、「 パーパス」、つまり一種の経営理念があらためて積極的に導入されるようになり、社内の人間はもちろん、地域や社外の人々にもその理念を浸透させようという動きが、コロナ禍前後くらいから加速しています。理念の浸透は社員やステークホルダーのやりがいやモチベーションを高め、積極的な参加につながる一方で、自分の「心」を巻き込まねばならず、感情労働を生み出す側面もあります。

 こうした疲労やストレスを生み出す潮流にブレーキをかけたいという潜在的な思いが、「はなぜこんなに働かなきゃいけないんだろう」「 この疲弊の原因ってなんだろう」といった問いや関心、つまり広い意味での「哲学」へのニーズに高まっているのだと思います。このニーズは、近年相次いで出ている能力主義批判の本*1や、2025年新書大賞にも輝いた三宅香帆さん*2の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024)にある「半身(はんみ)」への共感・関心にもつながっているのではないでしょうか。

 

*1  現代社会の能力主義に問題提起をしている方の1人に、勅使川原麻衣さんがいます。「能力」に束縛されることの生きづらさをテーマに『「能力」の生きづらさをほぐす 』(どく社、2022)を執筆され、その思いについて本誌65巻2号( 2024年3-4月号)の巻頭インタビューでご紹介しました。

*2  文芸評論家。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社、2024)について三宅香帆さんに伺ったインタビューは、本誌65巻4号(2024年7-8月号)の巻頭に収載しています。

 

――哲学的なアニメも最近では身近になっています。ご著書の推薦文も書かれた魚豊さんの『チ。̶地球の運動について̶』(小学館)は大ヒットし、「第26回手塚治虫文化賞マンガ大賞」にも選ばれました。

 

谷川 『チ。̶地球の運動について̶』がすごく面白いというのは大前提として、正直、あれほど小難しい話がたくさんの人に受け入れられたのには驚きました。読んだことのある方だと分かると思いますが、主人公も次々に入れ替わるので物語は複雑ですし、扱われるテーマや議論も、天文学や学問論、生き方に関する話題など、一定の難解さがあります。これが流行するのは、分かりやすさであふれた「スマホ時代」への反動とも言えると思います。

 私たち現代人はインスタントで断片的な刺激に取り巻かれています。車移動や電車通勤、寝起きの布団の中、料理中、あるいはトイレやお風呂にいるときでさえ、スマホやタブレットによって、いつでも情報や会話に接続することができます。このように、持ち歩けるデバイスを使って、ここではないどこかで別の情報を得たり、別のコミュニケーションに参加したりすることが可能になった状況を、心理学者のシェリー・タークルは「常時接続の世界」と呼びました。

 常時接続の世界で私たちは、マルチタスク的に作業やコミュニケーションを処理するのですが、人間の認識の仕組みは細かく注意を切り替えているだけなので、1つ1つのタスクはルーティーン化します。いわば、全てに疎かで何にも集中していない状態が生まれるのです。何にも没頭していないから、時折「何か足りない」「退屈だ」「 寂 しい」と感じるけれども、人はまた、スマホを通じた大量の刺激とおしゃべりで気を逸らそうとする。でも、根本的な解決にはなっていなくて……というのを繰り返しています。話を戻すと、そのごまかしが利かない部分の反動が「消化しきれなさ」や「難しさ」への渇望として、近年の哲学のブームに表れているのではないでしょうか。

 

――その一方で、谷川さんは昨今の教養ブームにも釘を刺されていました。

 

谷川 教養*3が求められるのも、スマホ時代への反動とみなすことができますね。しかし私は、教養というのが社会にとって有害な概念になっていると感じます。教養が「マウントを取る」ことを正当化するツールになっているからです。

 高田里惠子さんの『グロテスクな教養』(筑摩書房、2005)によると、ある教養が出ると、その教養を批判する言説が出て、後者の見解を取ったほうが教養があると周囲に思われる。時流を見極め、後から前の世代を批判して安全にマウントを取る姿勢が、「教養」とか「頭の良さ」ということになっている。これは学問だけでなく、例えばスポーツの話でも、誰かがある選手に関する教養を語ったとしたら「あの選手も知らんのか」というマウントに始まり、「現役の選手しか知らんのか」「 俺 は海外の球団も知ってるけど」「 あの監督のこぼれ話は」……などと、マウントの取り合いは際限がありません。

 「教養」は、ドイツ語では「Bildung」。自己形成、つまり自分をどう作るかに関わる概念です。にもかかわらず、従来の教養は、人から教養あると思われるように振る舞う、つまりマウントの問題になっています。

 教養は、もっと平凡で日常的なものであっていいと思います。具体的には、知ることの楽しさや、知識を得ることの気持ちよさを肯定する考えを「教養」と呼び、それ以上のものにするべきではないと思います。知らなかったことが知れた、できなかったことが少しできるようになった̶例えば、大人になって初めてキャベツの千切りができるようになったとか。ほんの些細なことでも、繰り返し練習することで達成感を得られるって、すごく素敵なことですよね。このような小さな喜びや自己満足を肯定する姿勢を、「教養」と呼ぶほうがいいんじゃないでしょうか。

 

*3  谷川さんは、三宅香帆さん、深井龍之介さん、田村正資さん、朱喜哲さんなどの近年目覚ましい活躍を見せる人文知の担い手たちを、過去の大正教養主義、大衆教養主義、ニューアカデミズムなどと対比しつつ、「令和人文主義」と名づけ、その特徴について論じた文章を相次いで執筆しています。具体的には、「令和人文主義と『斜め』の知性(ニッポンの新潮流)」(『 VOICE』2025年11月号)、「『令和人文主義』を担う新世代の書き手たち」(京都新聞夕刊コラム「現代のことば」2025年9月17日)、「深井龍之介、三宅香帆…新世代が再定義する教養「令和人文主義」とは」(朝日新聞デジタルRe:Ron連載「スワイプされる未来 スマホ文化考」)、「権威を避けて水平化する世代から、横並びを避けて垂直を回復する世代へ̶松本卓也さんとの対談を経て考えたこと」(note「哲学の工房」掲載記事)などがあります。

 

常時接続の世界で失われた「孤立」と「孤独」

――本書は、常時接続の世界で失われたものを「孤立」と「孤独」の2つの観点で整理しています。そこでは、孤立を「他者から切り離されて何かに集中している状態」、孤独を「自分自身と対話している状態」と言い換えられていました。

 

谷川 スマホ時代に生きる中で、私たちは反射的なコミュニケーションを積み重ねています。例えば対面で誰かと会話している時、公式アプリからのお知らせをスルーしつつもスタンプと短いテキストで複数人にLINEを返し、その後すぐにInstagramを確認し、X(旧Twitter)ではいくつかの記事を熟読せずにリポストする……このような日常は、ある程度スマホの操作に慣れている方であれば決して珍しくないでしょう。このように、何か1つのことに集中するにはあまりに気が散っているような状況を、「孤立」の喪失と表現しています。

 次に「孤独」の喪失とは、退屈に耐えきれず、何か刺激やコミュニケーションを求めてしまう状況であり、つまり「自分自身と過ごすことができない」ということです。信号待ちやお葬式、学校での講義中などで、私たちは目の前のことのみに集中できず、ついスマホを手に取りたくなってしまいます。このような経験は、多くの方が一度は経験しているでしょうし、教育現場であれば、学生が同様の様子を示す場面を目にしたことがあるかもしれません。

 孤独の喪失を考える上で、スマホがなかった時代の人との関わり方を実感する出来事がありました。先日、昔流行したケータイ小説『恋空』を読み返したのですが、冒頭で主人公の男の子ヒロがヒロインの美嘉に、PHSのPメールで〈アシタホウカゴハナソウ〉と送る場面が出てきます。印象的なのは、その後ヒロも美嘉も追加でメールや電話をすることはなく、翌日には約束通りに会って話すところです。当時はメールを問い合わせないと届かないこともあったので、このようなコミュニケーションの遅さやすれ違いが許容されていました。

 現代であれば、「 何 の話?」「電話かけていい?」とすぐに連絡してしまいそうですが、当時はこの程度の連絡で十分許容されたわけです。すれ違いが生まれることも多かったでしょうが、そのようなすれ違いの時間こそが、自分や相手について思いを巡らせる余白につながっていたと言えます。

 

――確かに、今の私たちは落ち着きがなくなるような速度でコミュニケーションをしていますね。谷川さんはスマホ時代に生きる1人として、心掛けていることはありますか?

 

谷川 とても小さなことですが、私は職場でなるべくスマホを操作しないよう心がけています。現在、京都市立芸術大学の教員として、スマホ時代の真っただ中で生活する学生たちと日々接しています。学生の様子を見ていると、スマホの使用について注意を促したくなることもあります。しかし、他者にとやかく言う前に、まず自身の振る舞いをちゃんとしないと話にならない。「率先垂範」と言いますが、進んで自分が周囲の模範になることが大事だと思います。

 また、何 かを作る/育てるという行為、すなわち「趣味」は、スマホ時代で失われつつある孤立と孤独を取り戻すための有効な手段であり、私は大切にしています。ここで重要なのは、作る、育てる対象は、日常の中で取り組める、どんなに小さなものでも構わないということです。

 哲学者のハンナ・アーレントによると、「思考」は単なる独り言ではなく、孤独の中で自己との「対話」として行われるものです。自己対話として思考を成立させるためには、思考の流れに摩擦を起こしかねない「他者」を、自分の内側に持つ必要があります。

 この考え方に基づくと、趣味は肯定的に評価できます。例えば、植物を育てる趣味があるとしましょう。この時、自分がどんなふうに手をかければ大きくなるのか、あるいは枯れてしまうのか、最終的にどんなサイズや模様になるのか、私たちの予測や想定、コントロールを超える部分があります。その時、この植物は、私たちと結びつきつつも外部にある「他者」として、私たちにいろいろなことを問いかけてくるのです。

 SNSなどの支配的な評価や同質性を気にするコミュニケーションの中では、自身は単純化され、心の中の「他者」も一色に染められがちです。しかし、趣味においては、私たちは同調や評価から切り離された状態に身を置くことができ、この経験こそが自己との深い対話を可能にします。この点で、趣味は孤独を持つことに通じると考えています。

 植物がピンと来ないなら、最近流行っている「日記」*4でも構いません。日記というと、「今日は朝からどこへ行って、何をして、次どこに行って……」といった出来事の羅列や報告を思い浮かべるかもしれませんが、そんな作業は単純すぎて思考に摩擦が起こらないですよね。むしろ、日常のある場面を微細に書き記していくような日記だと、観察と集中が必要なので、自己対話の練習になるはずです。エッセイストの古賀及子さんは、「靴紐を結んで出かけるまでにたくさんの字数を費やす」という例を挙げていて、そのようなイメージです。

 

*4  日記ブーム:『 IN/SECTS』vol.6(LLCインセクツ、2018)や、『文藝』2025年春季号(河出書房新社)が「日記」特集を展開。くどうれいんさんや土門蘭さん、古賀及子さんが日記本を出版してブレイク。古賀史健『さみしい夜 に は ペ ン を 持 て 』( ポ プ ラ 社 、 2023)など、日記などを書くことを伝導する文章も多数。文学フリマやZINEフェスでも日記・エッセイブースが拡大。2023年には、下北沢に日記専門書店「日記屋 月日」がオープン。月日は、日記オンリーイベント「日記祭」を主宰しており、2025年11月30日には第7回が開催。文豪たちの日記の売れ行きも好調で、2019年には武田百合子の『富士日記』の新版(中公文庫)が刊行されました。

 

12

「ゾンビ映画ですぐ死ぬやつ」にならないために

――本書の冒頭にある「私たちはゾンビ映画ですぐ死ぬやつみたいな生き方をしている」という指摘もまた面白く、ハッとさせられました。

 

谷川 先ほども触れたように、現代は常時接続の世界です。SNSや動画、メールやDMといった複数の媒体を行き来しながら、同時に対面でのやり取りもこなす。そして、ビジネスパーソンや、もちろん医療者も常に期限つきのタスクを割り振られているのであって、ひたすらにスピードが求められる世界に身を置いています。こうした環境に慣れてしまうと、ハイスピードで物事を処理していくことが「当たり前」だと思いこんでしまいがちです。

 このようなスピード感に追いつくためには、世間の「定番」や「正解」に倣うか、判断や行動を自動化するしかありません。即時的な判断や行動は、目的と手段がはっきりしていたり、行動のリスクが低い時などは有効です。しかし、重要な意思決定や人間関係に関わることなど、丁寧かつ慎重に判断すべきタイミングにもそのテンションを引きずり、軽率に判断しかねないとすれば、それは問題ですよね。

 そのような落ち着きのなさを、関西弁では「いらち」*5と言います。あるとき「常にいらちなやつ」って「ゾンビ映画ですぐ死ぬやつやん」って気づいたんです。ゾンビ映画では、「 こんなとこにいられるか!俺は部屋に帰るぞ」「 そのやり方は間違っている」「 こっちのほうが安全に決まっている」と、自分を疑うことなくハイスピードに決断する人は早々に物語から退場していきます。現代人の多くは、映画を見る時はバカにしているような登場人物と同じ振る舞いをしているわけです。

 ハイスピードなマルチタスクの処理を当然とする社会に流されるうちに、世界や他者への関心を失ったり、自分の考えや判断への批判精神を忘れたりしていないか。時に立ち止まり、自問することを忘れないでいてほしいと思います。

 

*5 いらいら、せかせかとして落ち着かないことや人、その様。

 

――看護学生が、実習で患者さんを目の前にしてどう動けばよいかわからず、固まってしまうことがあると聞きます。一見すると「なぜ学んだことが生かせないのか」「気が利かない学生だ」と思ってしまいそうですが、先ほどの「ゾンビ映画ですぐ死ぬやつ」とは逆に、むしろ状況をよく観察し、軽率に判断しない姿勢を持っていると言えるかもしれません。

 

谷川 その通りだと思います。特に患者さんとのやり取りは、自動的に判断できるほど単純なものではないですよね。その意味で、看護学生の戸惑いや迷いは、一度立ち止まって状況を丁寧に見極めようとしているプロセスとして、前向きに捉えることができると思います。

 きっと、分野を問わず言えると思うのですが、マニュアルやルールは、不安や悩みを表面上消すことはできますが、自分の経験に完璧に当てはまることは基本的にありません。迷わずルールに頼ってばかりいる人は、不確実性に弱いままです。

 悩みに向き合う時に役に立つのは、体験談や事例です。それに対してケーススタディは、知識をどう応用すればいいかを安全に考える機会になるので、先輩や友人から経験を聞いたり、本を読んでシミュレーションしたりすることは、悩みや迷い、不安とうまく付き合うのに良い方法だと思います。

 長老が若者に物語ったように、人類は昔から「事例を語り継ぐ」という仕方で知を継承してきました。事例は必ずしも即効性のある答えではありませんが、自分の経験に照らして反芻する時間を与えてくれます。仏教やキリスト教などの多くの伝統宗教が、具体的なエピソードの集積でできていることには、合理的な理由があると思います。

 

――ケーススタディが役に立つというお話は、谷川さんが本の中で主張されていた「自分の頭で考える」ことへの問い直しにもつながりますね。

 

谷川 そう思います。ビジネスや教育の現場などで、「自分の頭で考えよ」と声高に言われますが、すでに自分の頭では考えているはずで、そのメッセージには欺瞞がある。ちゃんと考えるためには、スローガンを口にするのではなく、効果的な方法を考えなければならないと思います。エピソードを集めてシミュレーションするとか、何かを作ったり育てたりする趣味を通して、「他者」を自分に住まわせるといった方法は、その一例です。

 それに、「自分の頭で」考え抜いた末にたどり着いた答えが、すでに誰かが示していたことであったり、専門家なら容易に分かる程度の情報であったりすることは珍しくありません。「自分の頭で考える」を強調すると、出てきた考えや判断ではなく、かけた労力に妙な思い入れを抱くことにもなります。ケーススタディや趣味もそうですが、大事なのは「他人の頭で考える」能力を身につけることです。

 

――哲学という営みを考える上でも、自分の頭ではなく、「他人の頭で考える」ことの重要性を示されていましたね。具体的にどのようなことなのでしょうか?

 

谷川 先人たちが試行錯誤してきた経験の中には、有用なアイディアや視点、思考のパターンが豊富に残されています。それが実際にどう使われているのかに触れ、自分でも見よう見まねで試してみる。すでにある思考パターンで満足せずに、思考の幅を広げることを「他人の頭で考える」と表現しているわけです。哲学の場合だと、自分なりに考えるだけでなく、デカルトのようにも、パスカルのようにも、アーレントのようにも考えられるというイメージ。学生は今の自分にできない考え方ができるようになるために学んでいるわけで、「他人の頭で考える」ことを大事にしてほしいと思います。

スマホ時代で失われた豊かさを取り戻す

――スマホ時代に失われた孤独や孤立を取り戻すためだけでなく、日常のケースに注目したり記憶に留めるためにも、「日記を書く」という営みは有効かもしれません。

 

谷川 そうですね。普通に暮らしていると、自動運転のように習慣的な見方で日常を経験するものなので、生活の細部に注目することはありません。でも、日常のエピソードを記憶に留め、シミュレーションできるようにする上で大事なのは細部です。それによって、後から「思い出すことができる」状態をつくることができます。

 ところが、スマホを介した経験はどうでしょうか。例えばTikTokを長時間見ていたとしても、どのアカウントのどの動画が心に残ったのかを後から思い出すのは難しいと思います。アルゴリズムによって次々と似たような刺激が供給されるので、漠然と面白い感じがするし、退屈はしない。でも、思い出して誰かに話すような細部への注目はない。実際、よほど有名でない限り、いつ見た動画か、誰のアカウントかということが会話にのぼることは稀です。

 これまでの話から、記憶に残るエピソードやケースの特性が見えてきます。まず、記憶に残るものは、細部まで観察しているものであること。金木犀のにおいがすると、昨年の同じ時期にあった出来事を思い出したり、楽しかった飲み会は、お店のどこに座って最初に何を頼んだかまで覚えていたりしますよね。

 それから、ずっと退屈しないわけではないこと。つまり、ある種の「間」や「退屈さ」があることです。映画でも常にクライマックスばかりではないし、緩急があるから面白いわけですよね。その意味で、実は退屈さは悪いものでもない。なのに、スマホを使っている時、それを遠ざけることに夢中になってしまうわけです。

 暮らしの細部を見ることと、退屈を遠ざけすぎないこと。これらを実践する上で大事なのは、「孤独」や「孤立」です。現代社会は、刺激や会話で自分を取り巻くことに夢中になって、1人でいることを妙に嫌っている。

 つながることよりも、つながらないことが難しい。1人で過ごすことにこそ勇気が必要な時代です。孤独の中で、同僚や上司の言葉、哲学者の言葉、あるいは自分自身の体験をふと思い出してリフレクションする。そんな「思い返す時間」こそ、スマホ時代に失われた豊かさを取り戻す力になるのだと思います。そして、思い出せる出来事や言葉のバリエーションが多ければ多いほど、その人の人生は豊かであると言えると、私は考えています。 

(了)

今回お話を伺った『増補改訂版 スマホ時代の哲学—なぜ不安や退屈をスマホで埋めてしまうのか』(ディスカヴァー携書、2025)

谷川さんの取り組み

京都市在住の哲学者で、現在は京都市立芸術大学美術学部デザイン科の講師も担当されています。哲学者として著作を発表する一方、メディア論や社会学といった他分野の研究やデザインの実技教育に携わり、企業との協働にも積極的に関わっています。日常や社会に哲学を届ける活動として、SNSやnote、Podcast「Ink and Think」「Philosophy Gives Directions」、ZINEなどで発信。書店やイベント、企業での講演やワークショップも多数手がけ、「学び」「教育」「衝動」「技術」など、さまざまなテーマについて哲学的な問いかけを届けています。

12
pagetop