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【小説】ワースト・ナース~看護教員のリアル~

第 11 話 患者不在 (3)

  • #看護教員
  • #看護学生
  • 2026/01/26 掲載
橘一沙

「なら、今はどんなことができていなかったと思う?」

 

「……アセスメントが全然足りていないとは思っていました。周りの人たちと比べて、すごく焦っていた感じはあります」

 

上原は、膝の上で手を組みながら続けた。

「自分だけ、全然考えられていないような気がして。だから、少しでも追いつかなきゃって……」

 

「追いつく、というのは?」

 

「ちゃんと記録を書いて、提出しなくちゃって」

 

私は深くうなずきながら言った。

「今の言葉が、答えなような気がするよ。上原さんは、『記録を書く』ことが目的になってしまっていたんじゃないかな」

 

「……そう、かもしれません。ちゃんと関われていない気はしていました」

 

「患者さんと関われていないと思った理由は?」

 

「何を聞いても、あまり話してくれなかったので」

 

「それは、どうしてだと思う?」

 

上原は困ったように眉間にしわを寄せた。

「……わかりません。どう質問しても、『大丈夫』って言われることが多くて……これ以上聞いても、迷惑かなって」

 

少しの沈黙の後、私は話題を変えた。

「課題レポートのことだけど。ここに書いてある内容は不適切な表現だった、と?」

 

「はい。実際には、ほとんど先生に言われたとおりにやった援助だったのに、書き方が……誤解を招くようになってしまって」

 

「じゃあ、どんなことを考えて、『毎日実践できた』という表現が出てきたんだろう」

 

上原は、少し考えてから答えた。

「……自分なりには、できたと思っていたからだと思います」

 

「具体的には、何をもって『できていた』と判断したのかな」

 

「患者さんの状態を考えて、行動しようとしたことです」

 

私は、その言葉を否定しなかった。

「考えようとしていた、というのは伝わってきたよ」

 

上原は、少し安心したように息を吐いた。

「今回の面談で私が伝えたかったのは、上原さんが “頑張っていなかった” ということじゃない」

 

上原は、不安げな表情で私を見ていた。少し言葉を選びながら、私は続けた。

「患者さんへの看護を考えるよりも、評価のために記録を書くこと自体が、いつの間にか一番の目的になってしまっていたんじゃないかってこと」

 

上原の表情が、わずかにこわばった。

「そんなふうに、見えたんでしょうか」

 

「うん」はっきりとうなずいた。「少なくとも、私にはそう見えた」

 

上原は、しばらく黙っていた。

 

「患者さんはね、看護師のことも、学生のことも、よく見ていると思うよ。話をしてくれなかったのは、性格や体調のせいじゃなくて、上原さんの態度や姿勢を敏感に感じ取っていたからかもしれないよ」

 

「……そうかもしれません」

 

「私の言うことが納得できないなら、否定してくれていいんだよ」

 

「いえ……確かに、思うところはありました」

 

「疾患や治療に関する知識は、とても大事だよ。患者さんにどんな問題が起こっているか、起こる可能性があるか。その原因や要因まで知らなければ、そもそもどんな問診や観察をしたらいいかもわからないから。でもね」

 

少し間を置いた後、続ける。

「でも看護って、目の前の患者さんが、今何をつらいと感じているかを考えるところから始まると思うんだ。今回はそこが少し置き去りになっていたんじゃないかな」

 

上原は、黙って聞いていた。

 

「『痛くないですか』って聞くだけじゃなくて、『手術したばかりでつらいですよね』とか、『動いたときはどうでしたか』とか。そういう声のかけ方ができた場面もあったかもしれない。患者さんの抱えている苦痛について想像できれば、共感的な態度で、もう一歩踏み込んだ問診ができたかもしれない」

 

上原は、小さくうなずいた。

 

「たとえ知識がなかったとしても、相手の立場になって考えれば、見えてくることもあったと思う。逆に、どんなに知識を並べても、患者さんの苦痛に目が向いていなければ、看護にはならないと思うよ」

 

「……はい」

 

「今回は、『情報を集めること』に意識が向きすぎて、患者さんが何に困っているのか、その苦痛を軽減するために自分に何ができるか、そこまで考えようとしていなかったんじゃないかな」

 

上原は何も言わなかった。ただ、黙ってうなずいていた。

 

しばらく待ってから、私は言った。

「もう一度、今回の実習を振り返ってみようか。一生懸命勉強していたのは確かなんだから、記録じゃなく患者さんに目が向けば、もっといろんなことがわかるようになると思うよ」

 

上原は再度小さくうなずき、面談室を出て行った。

机の上に置かれている上原の課題レポートと評価表に視線を落とす。

 

看護教員として伝えるべきことを、しっかり伝えられただろうか。

素直にうなずいてはいたが、彼女が内心どう思っていたのかまでは、むろんわからない。

 

私ができることなど、たかが知れている。あらためてそう感じていた。

上原の姿に、自分自身を重ねていた。そうして、新人看護師だった頃のことを思い出す。

 

当時の私は、患者さんのことよりも、先輩にどう見られているか、ちゃんと仕事ができていると思われているか、ミスをしていないか――

日々の業務に追われ、必死に動いてはいた。けれど、考えていることといえば、仕事を早く終わらせることばかりだった。

 

そんなある日、先輩に呼び止められた。

「あなた、自分の仕事がわかっているの。なんのためにここにいるの」

 

私は何も答えられなかった。続けて言われた言葉は、今でも忘れられない。

「自分が怒られないように動いているとしか思えない」

 

その場では何も言えず、ただ「すみません」と繰り返すしかなかった。

当時の私は “自分なりに頑張っている” つもりだった。

何か指摘されると、すぐ「でも……」という言葉が突いて出た。

 

上原の姿が、その頃の自分と重なる。

評価を気にし、周囲と比べ、「できている自分」でいようとして、大切なことや肝心な相手に意識が向かないのだ。

 

無意識だった。

悪意なんて、なかった。

 

――あのときの私は、先輩の言葉をすぐに理解できただろうか。

 

たぶん、できなかった。

頭では分かっても、本当の意味で理解できるまでには、相当の時間がかかった。

そう思うと、今日、上原に伝えた言葉が、今すぐ彼女の中で意味を持つとは限らない。

 

それでも、看護教員として伝えなければいけなかった。

記録を書いて提出すれば評価される。そういう環境の中で、学生が「患者より記録に向かう」ことを選んでしまうのは、ある意味、自然なことなのかもしれない。

 

そのような環境をつくりあげてきたのは私たち看護教員であり、看護教育の仕組みそのものでもある。

 

――私は上原に、患者と向き合うことが看護師の、あなたの役割なのだと理解してほしかった。

かつての自分が叱られた理由を、彼女にも分かってもらいたかった。

 

しかし、かくいう私も、なかなか自分の非を認めることができなかった。

患者と向き合うことが看護師の仕事だとわかるまで、長い時間がかかった。

 

上原が私と同じような壁にぶつかったとき、今日という日のことを思い出してくれるだろうか。

そうであってほしいと、願わずにはいられなかった。

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