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【小説】ワースト・ナース~看護教員のリアル~

第 12 話 触れられない場所 (1)

  • #看護教員
  • #看護学生
  • 2026/03/02 掲載
橘一沙

「……私、そんなにきつい言い方したかな」

 

優希は独り言のようにつぶやきながら椅子に沈み込んだ。
いつもの愚痴とは様子が違っていた。戸惑いや悲しみのほうが勝る、そんな顔だった。

 

「実習でまた何かあった?」
私はコーヒーを入れながら尋ねた。

 

「3 年生ね。真面目そうで、大人しくて、いわゆる “問題なさそうな学生” だったんだよ」
両手を膝の上で組み、どこか説明しずらいような口調だった。

 

「患者さんに向き合えていない感じがして、そう伝えたんだよね。情報はまとめてくるし、疾患や治療の勉強もしてる。でも、患者さんの言葉がまったく出てこないの。『特に訴えなし』ばかり」

 

私はうなずいた。何度も耳にしてきたことだ。

 

「それで、昨日のカンファレンスで言ったの。『患者さんの様子が見えてこないから、もう一歩踏み込んで訴えを訊いてこようか』って」

 

「それで?」

 

「いや、それだけなんだって」優希は困ったように笑った。

「声を荒げたわけでもないし、もちろん人格を否定するようなことなんて言ってないよ。ただ事実を伝えただけ。それで、次の日から実習に来なくなっちゃった。『体調が悪いので欠席します』って」

 

私は黙って続きを待った。

 

学生が体調不良を訴え実習を休むことも、珍しくなくなった。

発熱や咳嗽などの風邪症状ではない、いわゆる腹痛、頭痛、倦怠感、朝起きることができない

といった症状による欠席は、あきらかに目立つようになってきていた。

 

私たちの時代ではあまり考えられないことだった。もちろん、無理を強いるようなことは言わない。

学生の体も大事だが、患者さんが感染してしまうようなことは絶対に避けなければならないからだ。

たとえ風邪症状でなかったとしても、万が一、ということもある。

 

「その後、保護者から連絡が入ったんだ。『教員から強く叱責されたことで娘が精神的にショックを受けている。指導方法に少し問題があるんじゃないか』って」

 

優希の言葉が研究室の空気を重くした。私たち教員にとって、指導方法に対する親から連絡は、特に堪えるものがある。

 

「私、“強く叱責”したらしいよ」
優希が自嘲気味に笑った。私は笑わなかった。

 

「他に、何か気づいたことは?」
私はあらためて聞いた。

 

優希は考え込むように首をひねった。
「自己評価はかなり高かったかな。面談でも『よくできたかなと思います』って、はっきり言う子。ただ、注意したり指摘したりても反応がないのさ、固まっちゃう感じ」

 

私はふと、ここ数年の学生たちの顔を思い出す。
叱責というほどではない、ただの指摘。それだけで、黙り込んでしまう学生たち。
納得がいかない表情や、直接反論してくるような学生は、ここ数年記憶にない。

 

「あまり経験がなかったのかな。つまり、叱られ慣れていないってことだけど」

 

優希は小さくうなずいた。

 

「私たちが学生の頃って、かなり直接的に言われたよね。理不尽なくらい」

 

「言われたね。だからといって同じことをしようとは思わないけど」

 

いくら身から出た錆とはいえ、伝え方ひとつで受け取り方がまったく違ってくることを、経験上よく知っていたからだ。
同じやり方をして学生が成長するならまだ考える予知もあるが、おそらく、そんなことにはならないだろう。

 

「今は否定的な言葉じゃなかったとしても “傷つけた側” になるんだよね」

 

優希はしばらく黙り込んだ後、続けた。

 

「患者さんに申し訳なくなるんだよ。あの子、術後で疼痛もある患者さんのところに行っても『大丈夫ですか?』って 1 回聞いて、それで終わりなの。深掘りしない。表情もよく見ない。ほとんど目も合わせない。直接触れもしない。それをそのままにしておけないじゃない? 患者さんの善意で実習させてもらってるのに」

 

胸の奥がちくりとした。
“患者さんの善意”。それは、私たち教員を縛る最も強い倫理だ。

 

「“ちゃんと向き合えていない” って伝えることが、そんなに酷なことなのかな」

 

私は答えられなかった。

 

臨地実習とは、かつての私のように、患者さんと向き合えていない自分を突きつけられる場所でもある。
それは学生にとって、自分の未熟さを丸ごと否定されたように感じられることなのかもしれない。

 

「保護者からは、他になんか言われているの?」

 

「『娘は真面目に頑張ってきた。人格を否定されたと受け取っている。実習継続は難しい』って」

 

優希はため息をついた。

「人格なんて否定してない。ただ『患者さんを見て』って言っただけなのに」

 

研究室の窓の外で学生たちの笑い声が聞こえる。
その無邪気さと実習現場の重さの落差を感じ、気分が重くなる。

 

「ねえ」と優希が言った。

「教員って、どこまで学生に配慮しなきゃいけないんだろう。学生の心が折れないように、全部オブラートに包んでさ。それでも患者さんのところへ行く責任は、教員が負うんだよね?」

 

その問いは、私に向けられているようで、その実自分自身に向けられているようでもあった。

 

「優希は、間違ったことを言ったと思うの?」

 

少しの沈黙。

 

「……思ってない」

 

「じゃあ、それは必要な指導だったんじゃない?」

 

「でも、その結果、実習に来られなくなった」

 

その事実だけが、重く横たわる。

 

指導とは、成長を促す行為のはずだ。
けれど時に、それは学生を実習の場から遠ざける引き金にもなる。

 

どこまでが “育てる” で、どこからが “追い詰める” なのだろう。

 

優希は帰り際にぽつりとつぶやいた。

「なんだか、怖くなったよ。次に何か指摘したり、注意したら、また実習に来られなくなるんじゃないかって」

 

優希が出て行った後も、私はしばらく考えていた。

もし私がその場にいたら、同じことを言っただろうか。
それとも、もう少し違う言葉と言い方で伝えただろうか。

 

「叱られ慣れていない」学生。
「叱ることをためらう」教員。

 

今のような教育が続いた果てに、待ち受けていることは何だろう。

そして——“向き合えていない” のは、学生だけなのだろうか。

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