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【小説】ワースト・ナース~看護教員のリアル~

第 21 話 よくできた記録 (2)

  • #看護教員
  • #看護学生
  • 2026/09/28 掲載
橘一沙

その日の午前中、私は佐伯と一緒に病室へ向かった。

患者さんはベッドの背を少し起こし、窓の外を見ていた。

 

「失礼します。体調はいかがですか」

佐伯が声をかけると、患者はこちらを向いた。

 

「まあ、大丈夫です」

 

「痛みはないですか」

 

「動けばちょっと痛いけどね。まあ、こんなもんでしょう」

 

「そうですか」

 

佐伯は手元のメモに視線を落とした。

 

患者はしばらく佐伯を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。

 

「ほかに、何か困っていることはありませんか」

 

「特にないです」

 

「わかりました」

 

佐伯は小さく頭を下げた。

私は隣で、次の言葉を待った。

 

退院後の生活について聞くのかもしれない。

家に帰ってから不安なことはないか。家族とどのように過ごしているのか。

記録に書かれていたことを確かめるのかもしれない。

 

けれど、佐伯は血圧計を取り出し、測定を始めた。

患者の「大丈夫です」は、そのまま大丈夫なこととして処理された。

 

病室を出た後、臨床指導者が私に小声で言った。

「佐伯さん、アセスメントはずいぶん書けるようになりましたね」

 

「そうですね。私も今朝、驚きました」

 

「でも患者さんの前だと、まだ何を聞いたらいいかわからない感じですね」

 

責めるような口調ではなかった。むしろ、どう指導したものかと考えているような声だった。

 

昼休憩後、佐伯が 1 人のときを見計らって声をかけた。

問い詰めるつもりはなかった。ただ、1 つだけ確かめたかった。

 

「ここに、『患者さんは家族に迷惑をかけたくないと思っている』って書いてあるよね」

 

「はい」

 

「患者さん本人がそう話していたのかな?」

 

佐伯は一瞬、記録に目を落とした。

「直接、そう言われたわけではないですけど」

 

少し間を置いてから続けた。

「奥さんと 2 人暮らしですし、退院したら手伝ってもらうことも増えると思うので。そういう可能性もあると思って」

 

「可能性として考えた、ということ?」

 

「はい」

 

私はひとまず、それ以上の追及を避けた。

可能性を考えること自体は、間違いではない。

 

患者が言葉にしていない思いを想像することも、看護では必要になる。

けれど記録には、それが患者さんから確認した事実であるかのように書かれていた。

 

佐伯は嘘を書いたのだろうか。そう思いかけて、私は軽く首を振った。

 

患者の生活を考えるようにと、繰り返し求めたのは私だった。

家族への影響も考えてみようと、別の学生への指導の中で口にしたことがあったかもしれない。

 

佐伯は、私が求めている答えを懸命に探しただけなのではないか。

学生の記録を読み、よく考えられていなければ、考えが浅いと判断する。

 

よく考えられているように見えれば、今度は本当に本人が書いたのかと疑う。

ならば学生たちは、自分たちの学習成果を、いったいどのような形で提出すればよいというのか。

 

夕方、学生たちが病棟を出た後、私はもう一度、佐伯の記録を読み返した。

見れば見るほど、整った文章だった。よくよく読めば、誤字の 1 つも見当たらないことに気づく。

 

病態と生活がつながり、患者の心理が語られ、看護問題を明確にしたうえで、必要な看護が導き出されている。

評価表の項目に沿って読めば、いくつも丸をつけることができた。

 

一方で、今日の病室にいた佐伯は、患者の「特にないです」から先へは進めなかった。

それ以上深くは確認することができなかった。

 

私は学生を見ているのだろうか。それとも、学生が提出した文章を見ているのだろうか。

 

そもそも、その 2 つが一致していることを、これまでどのように確かめてきたのだろう。

 

〈患者は、家族に迷惑をかけたくないという思いを抱えている〉

その一文を見つめた。

 

明日は、記録に書いてあったことを 1 つずつ、佐伯自身の言葉で説明してもらおう。

そう決めて、私は記録を閉じた。

 

本当に、よくできた記録だった。

だからこそ私は、佐伯が見ている記録上の患者と、今日病室にいた患者が、同じ人だとは到底思えなかった。

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